三国志V        シミュレーションゲームのページに戻る

「三国志V」で、中国の46の全都市の征服を始めた。「三国志U」は国ごとの戦いであったが、「三国志V」は都市を征服するという形に変わった。
武将は、新武将「真沙魅」で行うことにした。「三国志V」では、新武将の配下に3人の新武将をつけることができる。「三国志U」では、配下の新武将は1人だったのでかなりやりやすくなった。「三国志V」では、すべての武将を武官か文官の2種類に分類される。武官は戦争に役立つが、開発をしたり、治水を行ったりすることができるのは文官だけである。したがって、文官がいないと奪い取った領土の開発はできないので、収穫も増えることがないのだ。もちろん武官の中で能力が高いものは将軍になれるし、文官の中で優秀な者は軍師になれる。将軍や軍師は、兵士を持つことができるので、戦いに参加できる。
189年春1月に都市漢中(38の武将空白の都市)で、旗揚げをすることにした。ねらいは、劉焉の支配する成都(41)を攻略し、中国西部に一大勢力を作ることである。
家来3人の新武将は、軍師の知軍、将軍の武軍、それに文官の耕軍である。

旗挙げして1年間かかって、190年の1月に、永安(42)を征服し、劉焉の支配していた成都(41)、梓潼(40)、江州(43)の3都市を支配下にすることができて、劉焉の攻略に成功した。劉焉の配下の厳顔などの武将を捕まえることができた。これで部下が大幅に増えた。劉焉は逃がすことにした。

次は、西涼(16)の馬騰を倒すことが目標となった。しかし、西涼(16)の馬騰は手ごわくて、征服するのに10カ月かかってしまった。劉焉、馬騰の二人の武将を倒すのに1年10カ月かかったことになる。新武将「真沙魅」は漢中(38)で指揮を執っていた。



漢中(38)から何回も武将登用をして誘った、となりの都市長安(13)の太守賈クが、説得に応じて新武将「真沙魅」に味方してくれることになった。君主董卓の支配していた長安(13)が戦闘なしで手に入った。征服できた都市はこれで5都市になった。




袁術が支配していた新野(23)と宛(22)を攻略したかったが、一時は5万人もの兵がいてなかなか落とすことができなかった。この宛(22)を攻略しないと、中国の東側に出られないので何としても落とさなければならない都市なのだ。190年冬11月から新野(23)の攻撃を始め、191年7月には新野(23)を征服、8月から宛(22)の攻撃を始めた。しかし、宛(22)を攻めていくと董卓の家来が許昌(19)などから応援に来て一進一退を繰り返した。たいへんだったが、6か月かかり192年春1月にやっと宛(22)の攻略を行うことができた。袁術は逃がすことにした。これで、洛陽(11)の攻略が可能になり、中央部の5都市を支配している董卓との全面的な戦争ができるようになった。劉焉、馬騰、袁術を倒したので、あとは中国西部で空白地になっているところを、部下に治めさせるようにすることにした。



192年春から準備をして、やっと192年秋9月に大都市洛陽(11)を攻略することができた。最大の都市で80万人の人口である。これで、収穫の心配はなくなった。192年夏6月には、すでに弘農(12)を落としていたので、中国西部17都市を支配することになった。これで、董卓の治めている都市は、かなり減って3都市になった。



戦争の準備に半年かけて、193年夏4月にはついに劉表の支配する大都市襄陽(24)を征服することができた。同時に、董卓が曹操と戦っている隙を狙って、許昌(19)を征服した。残念ながら曹操は、董卓に滅ぼされてしまった。董卓の支配する都市は、4カ国になった。193年夏5月からは、董卓などと戦う東軍と、襄陽(24)を中心にして江陵や武陵といった南部のほうを攻めていく南軍の、二つの戦力に分けて二か所同時に攻めていく予定だ。南部には劉表だけでなく、孫堅が5万人以上の大戦力で待ち構えているはずだ。



中国全土には46の都市があるので、戦いは始まったばかりだ。
189年の旗揚げ以来、19都市を征服するのに5年かかってしまった。あと27の都市を征服しなければならないので、少し遅すぎる感じだ。


シミュレーションゲームのページに戻る